一憶ハウスへようこそ

島根県立浜田市高等女学校

私は約12年前はじめてKさんのことを聞きました。その頃、私の両親は偶然ボストン郊外でKさんに会ったのです。私の両親もKさんもボストン郊外に住んでいます。Kさんはカリフォルニア生まれだけれど、戦争の前に家族と一緒に日本に帰ってきました。1945年にはKさんはここ、浜田、の女学校に通っていました。そこで私の祖父は美術を教えていました。私の母はその頃まだ小さくて彼女に会っていません。しかし70年も経ってから二人はこの信じ難い偶然から友達になりました。二人共アメリカに数十年住んでいますから、互いに日本語で話す機会を楽しんでいます。二人は自分たちが覚えている日本のことをよく話します。母は古い話を聞くのを楽しんでいますし、Kさんは色々話すことをもっています。

祖父の山﨑修二美術を教えています

戦時中、10代のKさんは三ヶ月、浜田からちょっと離れた山の中のお母さんの実家で過ごした時の思い出をよく話します。裏庭にあった椎の大木から木の実が屋根に落ちる音、役目だった玄関や廊下の床磨きの時の木の感触、おやつに食べていた蒸し芋の味などを鮮明に覚えています。


Kさんの家族の家

この家には長い間誰も住んでいないのですが、家族もこの家をどうすれば良いのかわからないのです。不便な場所にあり、主要都市からは遠く、家にある配管は古い。定期的に見てはいるけれど、自然がすでに家を取り返し始めています。Kさんは私がアートプロジェクトのために空き家を探しているということを知って、参考のためにこの懐かしい家を見るのは面白いと思いました。見るととても立派な家なのですが、その家の規模に圧倒されました。その上、その頃他の家との交渉を始めていました。


結局その家の修理代の高額の見積もりに恐れをなし、再び今まで二十以上見てきた選択のリストに戻って、悩んでいました。ところが他の人に私の選択の説明をしているとき、自分が一番一生懸命話しているのはKさんの家だと気がつきました。地球の反対側で偶然できた関係というありそうにもないことから、歴史を次世代に伝えるという個人的なプロセスについて私が理解を深めることは私のプロジェクトの絶好の主題だと思いました。母はKさんから聞いた家の話を私に色々伝えてくれていましたが、私が6月にアメリカに行った時、Kさんと直接会って話すことが出来ました。

話は私を魅了しました。初めはKさんはこの家を私が使うとは思っていなかったですが、私がKさんの親戚に数年間家を使わせていただけるかと問い合わせると快く同意してくださいました。彼女の家族の歴史、特に日本とアメリカとを繋いでいる関係を学べる事が嬉しいです。私の家族の歴史の日米関係と彼女の家族のそれとの間には色々な類似点と違いがあります。母とKさんに新しい話のネタをあげていることが嬉しい、と言うのも私は数千キロメートルも離れている日本での母とKさんの若い日の思い出と彼らとの間の最も新しいつなぎめとなっているからです。私とアンディはもうすでに一生懸命に仕事を始めて、はびこった植物を切り、ほこりを掃いて、この家の主となっているヤモリを驚かせています。ときどき私に戦いを挑んでいるように感じられる私の祖父母の家と違って、この家は安堵の吐息をついているようで、自体を皆様に体験していただけることを楽しみにしていると思います。

一憶ハウスへようこそ。